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安居寺あれこれ

開山の項には、遣唐使や留学僧などの往来が盛んで、日本へ唐の新しい 仏教文化が流入し、奈良を中心に国家保護を受けた仏教寺院が次々と建立 された。華厳・律・法相・三論・倶舎・成実の南都六宗が仏教の有力な流 れとなり、安居寺もその影響と無縁ではなかったであろうが、当時特定の 宗派には属していなかったようである。

その後、平安初期には、唐留学より帰国した弘法大師(空海)が真言宗 (密教)を開き、皇室や貴族の信仰を集め、多くの寺が転宗して新しい国 家仏教として発展した。安居寺もこの真言宗の密教的影響を受け始め、鎌 倉時代以降に再興されて後は、密教寺院としての性格を強めていった。

二十四の支坊を持ち、平安時代には花山法皇が、また中世には兼好法師 なども訪れたと言われるが、戦国の争乱の兵火により伽藍のすべてを焼失 し、木尊を伝えるだけとなった。近世以降の安居寺は加賀藩の祈願所として、手厚い保護を受け、寺観も整えられた。

 

広報おやべ8月号 公文書史料室だより vol.51 掲載記事

小矢部市に残る歴史の道・その5 ~安居道(あんごみち)(観音道)~

江戸時代初期から弥勒山安居寺(みろくざんあんごじ)は観音信仰の寺として栄え、十八世紀には武士階級から一般庶民にまで広がりを見せていたことは、当寺に残る建造物などから知ることができる。  この安居寺へ観音詣(もう)でをしたという道(観音道)が旧北陸街道(現・歴史国道)が通る埴生地区石坂集落の中程に残されている。

その道脇に「弥勒山安居寺/安居観世音(やっすいかんぜんおん)是ヨリ二里」、「南無観世音/安居道(あんごみち)」と書かれた二基の建石(たていし)が立っている。この建石はいつごろ立てられたものか不明だが、江戸初期の「越中四郡絵図」や後期の文政七年(一八二四年)に蓮沼村・石坂新村の村肝煎(きもいり)たちが作成した「倶利伽羅山中旧絵図(くりからさんちゅうきゅうえず)」にも石坂集落からの安居道が描かれていない。だが天保十年(一八三九)の「砺波郡往来筋絵図(おうらいすじえず)」になると記されていることから文政年間末から天保年間初頭にかけて石坂集落を分岐点とした観音道ができ、その時この建石が置かれたと思われる。

一方、西蓮沼地内の県道砂子谷埴生線沿いに「観音開道/元禄十年九月建之」と記された石の道標が立っている。それには今は風化してはっきりしないが「□□関谷村(さきのたにむら)迄四丁」以下安居寺への道筋が刻まれている。砺波山山麓の関谷村(現・西蓮沼)まで四百メートル余りある矢立越道沿いにこの石標が立っていたと思われる。江戸時代中期の元禄のころには、矢立越道が安居寺に参詣する観音道となっていたが、後期には、北陸街道の整備に合わせ石坂集落から分岐した道が安居寺への主流の道となったと思われる。幕末以降は、現在の「勘左衛門池(かんざえもんいけ)」堤防下を通り、蓮沼集落に出て、安居寺に行く道もできてきた。安居道(観音道)の道筋は時代に合わせ変遷していったと考えられる。

 

© 北日本新聞掲載記事

photo47.jpg南砺市安居(福野)の真言宗の古刹(こさつ)、弥勒山安居寺(みろくさんあんごじ)(大谷龍寳住職)は31日、寺の厨房で、3日の節分会(せつぶんえ)に向けて豆まき用の大豆をいる作業を行った。檀家(だんか)の女性5人が、表面がほんのりキツネ色になるように仕上げた。

油をひいた鉄鍋に県内産の大豆を茶わんに2杯ずつ入れて、かき混ぜながら加熱した。5人とも、いる作業を担当して10~15年のベテラン。豆が適度な状態になると木箱に移して冷ました。朝から夕方にかけて約100キロの大豆をいり、厨房には一日中、こうばしい香りが漂った。2日に豆の袋詰め作業を行う。

3日の節分会では、午前10時と11時、午後1時の3回、豆まきを行う。弘法大師が伝えたとされる星占い「宿曜経(すくようきょう)」も紹介する。大谷住職は「大勢の人にお参りしてもらえればうれしい」と話した。